昭和42年06月08日 朝の御理解
親の事は子が頼み子の事は親が頼む。頼み合い致せと。神も助かり氏子も立ち行く。神も助かり、氏子も立ち行くあいよかけよで立ち行く。あいよかけよでと親の事は子が頼む。子の事は親が頼む。又は神も助かり氏子も立ち行く道と。それはあいよかけよの道だとという風にお道の信心が説かれております。又事実そうだと思います。そこにやっぱお道の信心の、有り難い所がまぁあると思うんです。
そこにはその、親の願いと申しますか、神の願いと言うか、子供に対する、氏子に対する切なる願いと言う物が、かけられてある。その切なる願いを私共が分からせて貰。親の思いを分からせて貰うて、その親の思いに沿う所から生まれて来るのがあいよかけよの道なのです。その事を何時も頂くのですけれども、今日の御理解はそこの所から、今日いわば初めて頂く御理解なんですから、よく頂いて貰わんならんと。
金光様の御信心、まぁそういう信心だと云う事はもう何時も頂いております。そこでその、あいよかけよという、と云う事は神様と氏子とがです、あいよかけよの所からこう交流しだして来る、通い合うて来る。ここんところが大事なんです。神様と氏子とが、通い合わなければ、交流し合わなければ、あいよかけよの働き合いになって来ないです。昨日、一昨日でした。福岡のある方が熱心に信心をされます。
大体こちらにおられた方ですけれども、あちらに移られて、お商売を始められた。まぁ初めの間はもう現在食堂をしておられますが、本当にそのうどんのすめの取り方も分からなかったものが、おかげを頂いてもう15年にもなりましょうか。もうそれこそもう本当に、もうこの方一軒の事だけでも、本当に一冊の書本が出来る位にですね、おかげを受けたお家なんです。
この前は御造営の事に付いてはもう大変、もう一家をあげて、もう御造営、御造営という事で一生懸命なられた、又お家でも御座います。先日から昨日一昨日お母さんが参って参りまして、3番目ですか、4番目の息子さんがもう本当に親の言う事を聞かず。しかもその、友達のお金を預かったまま東京へ行ってしまったんです。それでその後の後の尻のごいは、全部そのお父さんやらお母さんがしなきゃならないと。
もうあんな奴はもう親でも子でもない、もう帰ってこんで良いという。そんな方がよかって。まぁ言いながらも、まぁお取次ぎを頂いてお願いをしております。もう私共手がおえられませんと、親では。もうしかしあれが東京まで行きましたから、あちらこちらに迷惑かけるという事も無くなりました。けれども矢張りその、考える事は、そのあれ、その立ち行く事をですね、願っておられる訳です。
ところが先生、昨日と一昨日来てからですねその○○、誰々がその、途中まで自動車で帰って来よるという話をですね、風の便りに聞いたと言う訳なんです。ところがもう早速その聞いた日に着いてるんですね、あるところへ。親のところには直接帰って来きらずに途中に寄ってる訳なんです。そこにまた、親戚がありますから、親戚から電話があり、弟さんの、妹さんの、おります主人の。
それでその方から電話掛って来た。姉さん○○があんたここまで帰って来とるよっち。沢山な荷物持ってから帰って来とるとですがっち。その沢山の荷物ちゅうのが自分一人のじゃなく、二人分の荷物持って帰って来ておる。いわゆるあちらから、そのまぁ、まぁだ家内にしとる訳じゃないのだけれども、女を連れて帰って来てその、まぁ認めてくれとこう言う訳なのです。荷物が多いはずだと。
それでその、もう私はあんな奴の事は知らん。どうかお姉さんが会うてやってくれ。いや私はあん奴には会わん。という訳なんですよね。それでまぁその、とにかくまぁなら私は椛目にお参りをさせて頂いて、親先生に一応お届けさせて頂いてから、という事でその、まぁ見えたんです。ちょうど私も、奥の方へおりましたから、奥の方でゆっくり、まぁいろいろその今まで聞いた事なかった話を聞かせて頂いたんでその。
本当にまぁあぁその様々な難儀を掛けておる訳なんですね、親に対して。そしていろいろ話よりましたら、こんな事言うとですもんね。子供達は何人もおりますけれども、結局あの神様に一番先にお願いをするとは、もう感動しとる、あげなかつはいらんと言う奴が、こつが一番口、もうお願いをしておると云う事ですよね。もうあんなガキは、もう顔も見ろうごつなか。帰ってこんが良い。
却って帰って来ると迷惑、皆に掛けるから、ありゃ帰って来んが良いというですね、その息子の事を一番先にお願いをして。それが段々その親孝行してくれるとは、一番最後の(笑い)親不孝してくれる心配なるとからは、先にやっぱお願いしよる。そして自分どん夫婦の事は、何時もお願いしてしもうてから、あら自分達の事はお願いもせじゃったと、言うような状態ですというて、涙ぽろぽろ流しよるですね。
これが親だと思うですよ。口にはもう勘当した、もう会おうごつもないといよるけれどもです、ね、心ではそれではないものを持っておるという事です、親というものは。もうお前の様な奴は兄弟じゃない、もう兄弟の縁も切る。親子の縁も切る。もうどこさっと東京さ、どこさっといってから、自分のよかごとすりゃよかてい、とこう言うとるんだけれども。実際なら福岡の地に帰って来とるという事を聞けば。
実を言うたら、飛んでも行ってやりたいものが心の中にあるだけれども、電話でそういうた、手前まずここへ、やって来てその事を、まぁどうしたもんだろうかというて、お伺いをされている。まぁ実を言うたら大変おかげを頂いて帰って来ておるんですよ。それでそれはまぁ別ですけれども、親の願い、親の切なる思いというのはそうだと云う事。いわゆる、屑の子と可愛いのが親心であり、神様の心なんだと云う事。
そこで私共もやっぱり本当に、屑の子にならなければいけない訳ですよね。 じゃいっちょ親不孝しよう。という意味じゃないですね。お道、私信心でいう、屑の子というのは本当に昨日の朝の御理解じゃないけれどもね、もう我屑の子という自覚なんだ。もう私の様な詰らん者があろうかと。自分が善人であり、自分な悪い事はしよらんと言う物はもう助からないと仰る。我こそ悪人であると、親鸞上人が悟られた様に。
自分の様な詰らない、自分の様な屑の子が又とあろうかと。という自覚に立たせて頂く所から、屑の子ほど可愛いという私は神の働きというものは始まると思うんです。もう信心しよるけん、悪か事はいっちょんしよらん。と云う事はです。もう余りにもの表現ですね、言い方ば教えを頂き、道を聞かせて貰うたら、果たしてどれ程、私共は道の行者としての信心が出来ておるのかと。
道のお道の信心をさせて頂いて、そしてお商売ならお商売させて頂いておるが、どれだけ道に通うた商売をさせて頂いておるか。もうその事だって、第一道にかのうとらんもん。教えを頂いておる者が、なら教えをどれほど自分のものにして。日常生活の上に現して行きよるか。現して行きよらん。本当に云う事を聞かない、言わばくずの子であるという事になるじゃない。
そういう神様の切なる願いというか、親の願いというものを、子供が本当に分かった時に、私はそこから交流して来るもの、本当にお父さんお母さん済みませんでした。今まで何年間の事は、どうぞお許し下さいと。是からは心配かけん様にしますという。そこから本当の意味での親だけの思いではない、子供だけの思いだけではない、親と子との思いというか願いというものが交流しだすのです。
親の願いを聞いてやれ、子供の願いを聞いてやれる。しかも気持ち良く有り難く聞いてやれれるという働きというものが、私共と神様の間にも、交わされていかなければ、あいよかけよの働きになって来ない。そこで私は思うのです。祈りてみかげのない時には、信心してみかげのある、霊験のあるを不思議とは言うまじきものぞと。祈りてみかげのない時は、これぞ不思議なる事ぞとこう仰る。此処ん所をですね。
先ず私共が思い込み信じ切らなければいけないと思うですね。これ程信心するのにというた時には、もう信心は止まっておる。是はまだ私の信心が足りぬからだと、一段と信心を進めていけば、そこからおかげが受けられるという道なんです。おかげは絶対のもの。それはもう大地を叩く程に間違いないもの。その絶対のおかげが受けられんのは、何処にあるのであろうかと、まず思うてみなければいけないと言う事です。
この様にも間違いのない神様を頂いておる。おかげのない方が不思議じゃと仰る程しの、おかげを神様は下されてあるのだけれども、それが自分を受け止めれるだけのものがないと云う事をです、分からせて頂いて、そこから一生懸命の信心もさせて頂こう。一生懸命に改まりもさせて頂こう。本気で教えを行じさせても頂こう。そこまでですよ。今日のまぁ御理解のみそと言うのは、おかげは絶対なものなんだと。
神様が嘘を仰る筈はない。その絶対のおかげである、そのおかげが自分の上に現れて来ない、頂けて行けないと云う事は、どう言うような事であろうかと。是はまぁだ自分の一心が足りぬからだと、一心にそこから信心を進めていけばです、そこからおかげが受けられる、と仰る様にです、ね、どうしたらおかげを受けられるのであろうかと。もうこれで良いとは思わん。親子が夫婦が。
信心させて頂いておる者が皆、こりゃもう私だんここが足らんとですばい。あれはまだ私共が思い違いをしておったよ。ここんところをもういっちょ進めて行かなければならんよと。ここんところをいっちょん改めて行こうじゃないですかと。本気でその問題を通して自分を磨かせて頂く材料にしましょうやという風にですね。改まる事に磨かせて頂く事に一心の修行に一心の祈願に祈りに。
私共が一生けんめいになって。私は思うんですけれどもね私はあいよかけよの働き合いというものはですね、そこからしか生まれて来ないと思うんですよ。親の願いが分かりたい。親の思いが分かりたい。「おかげは絶対とおっしゃるのに、絶対のおかげが現れていないのは、まぁだ私の信心が足りんのだ。何処が足りんのか。改まりが足りんのだ、一心が足りんのだ。」
昨日は「関」さん親子の話題になってから、こういう先生大変なお願いをさせて頂いておるのに、信心も出来ませずに。そうなんですよ「関」さん。そこが分かったらおかげなんです。こういう大きなお願いをさせて頂きよるのに、この程度の信心しか、この程度というて、やっぱ毎日朝参りをなさっておられるのだから、もう是以上なにが出来るかとこう云う事になる。言うたら。
普通からみたらもう本当に、あの遠い所から、しかも自動車で。ね、たくさんのいうなら油を使い、いや費用を使うてです。毎日毎日椛目通いをしござるが、とてもあげな真似が出来んと言う位な信心をさせて頂いておる「関」さんがです、この様なお願いをさせて頂いておるのに、この様な事ではおかげ受けられん筈だと言う事を昨日分かった、まぁいうならば分かった。
そこで、まぁどう云う事に、今朝から現れているかというと、今朝はもう私はここに、まぁ20分前にここに座らせて貰ったんですけど、その時にはもう、直ぐもう、親子のものが参ってみえておられた。本当にこの頃は、親先生のお出ましもよう拝まず。朝参りをしとると言うだけで。本当に朝の御祈念の時間にも、言わば御理解が始まる前どん、参って来る様な事ではあいすまんという事になって来たんですよ。
まぁだそれだけじゃありませんです。この方達はどれ程にまぁ是じゃまだ足らんとばの、是はまだというて是が一つの形の上でもそうなんですけれども、心の上においては、まだまだどれ程の事があるやら分からん、所を目指して信心はして行くもんだという事なんです。おかげは絶対なものだ。その絶対のおかげが現れて来ないというのは、是程に切実に願うておるのにおかげにならんと言うのは。
只切実に縋ったり願ったりしておるだけではいけん、まだ自分の修行も足りないのだ改まりも足りないのだ。本気での磨くという事も、まだ欠けておるのだというふうにです、そこんところを私共は取り組ませて頂いて、おかげをこうむって行くところからですね、生まれて来るのが情感というですかね。なんと親じゃなぁ子じゃなぁ。なるほど親神様じゃなぁ。と思われる様なものが、ここん時はもう形じゃないです。
心の中に通うて来るんですから、実感として心に通うて来る。そこから私はあいよかけよの働き合いと言うものが、そこから始められるんだと思うですね。私はあいよかけよの働きと言うものは、そういう経路というか、そういう道すがらと言った様なものを、今まで説かなかった気がするですね。もう直接そのあいよかけよの働き合いと云うことを説いた様に思うんです。
神様の願いというのは、福岡のその方の話じゃないですけど、本当に屑の子ほど一番かわいいという親心そのものにです、もうあれはかんどうしておると。あれはもう帰ってこんほうが良いというておる、その人の事をやっぱり神様に祈っておる、願っておる時に口について出るのは、○○誰々の事なんだという事なんです、そして自分で涙ぼろぼろ流しとっちゃん。
もうこげな奴はと思うておっとば、一番口にお願いしよる自分ばです、神様とても同じ事なんです。ところで昨日朝の御理解のところをよう分からせてもろうて。屑の子の自覚、私の様な、私の様なという事を先ず分からせて頂いて。そしておかげは絶対のものと、信じさせて貰うて、その、絶対のおかげが現れて来ないのは、これはまだ私の信心が足りんからだという。
その足りん所を一生懸命つとめて行く内に、めぐりのお取り払いでも成って来るだろう。力も受けとられるであろう。親の思いが分かって、それに沿おうとする、その氏子のその信心態度というか信心の姿勢というものがです、神様の心を動かさん筈がない、そこから通うて来るものが、神様と氏子の、あいよかけよの働き合いというものが、生まれて来る。
そのあいよかけよの働き合いという、そこん所のルートを通って流れて来るのが本当のおかげなんです。そこに私はもう限りがないですね。先程情感という事を言葉を使いましたが、所謂合楽のお広前が慕わしゅうて慕わしゅうてと云う事が、その先に生まれて来るのですもうそれから先は手はいらんです。その情感が神様と私共の上に通う様になったら、所謂合楽通いが有り難うて有り難うて合楽通いが楽しゅうて楽しゅうて。
というその親子の情感というものが、通い出したらです。もうそれから先は手はいらん。もう段々信心は募って行くだけ。有難いものが。そこの情感が、私は出て来る所まで、信心を一つ本気で進めて行かなければいけないと思うですね。そこから私はあいよかけよの道、いわゆる神も助かり氏子も立ち行く。本当の意味で親の事は子が願い、子供の事は親が願え、親のことは子供が願いという願い合いの。
私は信心というものが出来て来る様になり。親も子の為に、子も親の為に。親は子薬、子は親薬と言う様な、私は情感が通うて来る。親が病気をしておった。遠方から子供が帰って来た。お母さんどうですかと。もうそれこそどげな名医に手を握って貰うより、どういう素晴らしいお薬を飲むよりですもです。子供の方が薬になるというのですよ。親は子薬、子は親薬と。
そういう情感が通い合う時に、今までは長い間親不孝して済みませんでしたと。いやもうそれが分かってくれればなんじゃろうかい。そこに親子の情感というものが通うて来るのです。どうぞ一つ、そういう私は、本当に天地の親神様と私共氏子としての、その親と子としての情感が通う様な、おかげの頂けれる所まで、信心を進めて行き。追求して行く。そこに今日の御理解があると思うですよね。
どうぞ。